かのアイザックニュートンが熱心なキリスト教信者だったと知ったとき、私は心底驚いたものです。そもそも「宗教」と「科学」は相反するものだと思っておりました。
この本は、そんな長年の疑問を十分に払しょくしてくれる一冊でした。
著者は素粒子物理学者という最先端の科学の世界に身を置きながら、カトリック教会の聖職者というお立場の方です。
「先生は科学者なのに、科学の話のなかで神を持ち出すのは卑怯ではないですか」と高校生に問われたことで、広く説明の必要性を感じたという著者。
確かにそうですよね。科学を突き詰めた結果、わからないことは「神様が決めたから」などと言われたらたまったものではありません。特に、キリスト教などの一神教に疎い日本人には、そもそも神様を持ち出す前提すらないのですから。
古来、宗教・哲学・科学などに明確な線引きがあったわけではありません。西洋では知識階級の人々は神学を学んでいるのが当たり前だったそうです。身に着けるべき知識および教養の一つだったのでしょう。
しかしだからこそ知的に高い人々が、なぜ科学との矛盾に耐えられたのか、そもそも疑問を抱かなかったのか。私のような凡人には理解しがたものでした。
そもそも教会には絶対的な権力がありました。その力を保持するために、神の教えに矛盾があることは許されません。そこで14世紀にアリストテレスの「天動説」が採用されました。
その後ガリレオが「地動説」の正当性をいくら説こうが、おいそれと受け入れることはできなかったのでしょう。
教会はそれ以降も、あらゆる科学者を不当に排除し続けました。その悲しい歴史についても本書では多く紹介されています。しかし科学者たちは追及の手をゆるめませんでした。
日本でも僧侶が絶対的な権力をふるっていた歴史はありますが、それにしてもこの教会のやり方・在り方がまかり通っていたのも不思議でしょうがない。
日本人特有の「宗教観」を踏まえ、歴代の著名な科学者たちと教会の確執からひも解く丁寧な説明は、大変わかりやすく納得のいくものです。
しかし近年になって提唱されたアインシュタインの「ビッグバン理論」などは、逆に教会は歓迎するところに。「宇宙の始まり」があるのであれば、それを創生したのは神と言えます。しかも「光あれ」の言葉にも矛盾しません。
この理論を受け入れるにあたり、1979年ローマ教皇はガリレオに謝罪したそうです。しかし同時に「ビッグバン自体を研究してはなりません。それは創造の瞬間であり、神の御業だからです」とおっしゃったとか。都合のいいところだけ切り取ろうとする姿勢は、14世紀から変わらないということでしょうか。
近年の著名な科学者の一人として、車いすの科学者でしられるホーキング博士を挙げられていました。無神論者で知られる博士。ご自身に与えられた障がいを思えば、神様を信じられなくて当然でしょう。しかし彼がそもそも科学に求めたのは、宇宙の創生者がいるかを知るためだったようです。
そして彼は「神なき宇宙」の理論構築に取り組みました。
しかし逆に言えば、彼の中に常に神がありました。過酷な生き方を強いられた彼の生きざまに、彼が感じであろう忸怩たる思い。
この本ではこのような、らゆる科学者たちの神との向き合い方について述べられています。
ニュートンが腕利き職人に作らせた太陽系の精巧な模型を見て、その出来に感心した無神論者の友人が「これは誰が付く他のか」問うた際、「誰でもない」と答えたといいます。
「太陽系のモデル」は完璧すぎて、あくまでこの模型はそれを模したものであり、その元の設計自体をしたものがいるとすればそれは神だと。それを聞き、その友人は神を信じるようになったそうです。
科学で突き詰めるほどにあまりにも完璧なこの世界、神の存在を信じるというより感じるのは、あるいは自然なことかもしれません。
読了後、まさにコペルニクス的転回が期待できる一冊です!
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