ようやく「ワーキング」な日常
さていよいよお仕事を始めることになりました。
私の勤め先は日本食レストラン。現地の日本人は略してジャパレスと呼びます。
実際に働いたのは2か月ちょっとのことではありましたが、「海外でお仕事をする」若きその日々は、いかに貴重な経験となったかはいうまでもありません。しかもオーストラリアのチャイナタウンという場所柄、ネタに満ちていますしね。
ちなみにワーキングホリデーで働く経験を、日本人はワーペリ(Working experienceの略)なんて呼んでおりました。自分のワーペリでは…、○○のワーペリがあると…。
それでは私のジャパレスでのワーペリを少々、お時間ありましたらお付き合いくださいませ。
チャイナタウンの日本食レストランって!?
シドニー・チャイナタウンとは
大学の卒業旅行でロサンゼルスに行った際、チャイナタウンにあるホテルに宿泊したことがあるのですが。正直ビビってしまい、お店には近づけませんでした。日本のチャイナタウンにも、この時点で一度も行ったことがなく、中国自体を初めて訪れるのもこの10年後のお話。
そんな私にとって、ほぼ初めての「チャイナタウン」であり「中国」がここになりました。
従業員以外の往来の人々も、地元オージーや欧米人の観光客よりそこで暮らす中国人の方が多い。英語より中国語が飛び交う、ちょっとした異空間でした。シティに中国人が多いわけです。
大阪出身のユミは神戸の中華街の常連だったこともあり、初めて向かう折には私の水先案内人となってくれました。
日本のチャイナタウンのように、食べ歩きできるような軽食や麺類というより、コース料理が多いので食事はほとんどしなかったのですが。お店で1杯10ドルのウーロン茶を「絶対おいしいから」とユミに勧められて飲んで見ると、本当においしくてびっくりしたものです。
通りでは二胡を弾くおじいさんがいて、その美しい調べにも感動。すっかりチャイナタウン好きとなりました。
日本食レストランですが…
さて私勤めることになったのは、そんなチャイナタウンのそばに位置するジャパレスでした。家から徒歩30分ほどでしたが、坂道をひたすら下っていくだけなので行きやすい場所です。ちなみに帰りは送ってもらえるということだったのも決め手でした。
時給は最低賃金より少し高い、14ドルくらいだったと記憶しています。サービス業未経験の身としては、十分すぎる額だったと思います。
その店舗名は「萬屋(まんや)」。日本人なら「日本か?」といぶかしむであろうこの名前…そう、オーナーは中国人です。
厨房には一人日本人調理師がいたのですが、私と入れ違いで辞めて旅に出るところでした。そのため実際一緒に働いくこととなったのは、英語のできないタイ人女性と英語は話せないけれど謎に日本語ペラな中国人のおばちゃんというカオスでもございました。日本食って…。
ちなみにベトナム人男性もいたのですが、彼もちょうど辞めるところで。彼とはなぜか電話番号を交換したものの(ジミー大西さんに似ていたので「ジミーちゃん」と登録)、興味はなかったので特に連絡は続きませんでしたが。
お店は17時開店のディナービュッフェ形式で、メインは寿司の食べ放題。オーナー親子(中国人)が店内の見えるところで寿司を握るパフォーマンス、そして一人6個までの生ガキ提供がウリでした。
その他セルフで食べ放題のカレーやチャーハン、和風だしのかけらもない中華風味の「おでん」(油が浮く)その他副菜があって30ドルくらい。ドリンク代は別。今日は少しゼイタクしようか~、という地元のお客様がいらっしゃるお店でした。
お仕事の内容は?
初めての接客業にドキドキ
繰り返しになりますが、私はそれまで接客業をしたことがありません。前職は事務員ですし、学生時代のアルバイトは主に家庭教師・塾講師、そしてスーパーの裏方(ひたすら品出しするのが楽しかった)や、単発のイベントバイトなど。
初めての接客に加えて英語対応ですから、緊張は二倍です。
先の厨房メンバーのほかに、ホールスタッフで日本人アルバイトが6名(ワーホリ4名・学生2名)に、中国人女性2名です。
ホール責任者の中国人女性は、小柄なおばちゃんで少々短気。厨房のおばちゃんと、よく中国語でケンカしていました。しかし早口の英語でテキパキ指示を飛ばし“make sure(確認して)!”が口癖。実際には口より先に体が動いちゃう、エネルギッシュで気持ちの良い方でした。
今も覚えている、お仕事用のフレーズ
教わった流れは、まずお客さんが来たら”Do you have a booking?”と予約の有無の確認をとること。テーブルに案内するときは“Come this way please.”と必ず声掛け、テーブルについたら“You can eat anything the dishes here.”と説明して、“Also you can eat half a dozen oysters.”と生ガキを6個(半ダース)食べられることを付け加える。その際必ず“So would you like to eat now or later?”と提供するタイミングを尋ねること。あとはドリンクのメニューを渡して、注文分のドリンクが空になったら“Anything else?”とすかさず追加オーダーを促す。
あとはこまめにお皿を下げたり、料理の減り具合を確認したり。日本的な「おもてなし」っぽさをアピールするように言われていました。
英語自体はさほど難しい言いまわしでもないし、言うことは決まっているし。思ったよりは順調に仕事に慣れることができました。
実はお客さんの8割がたが中国人で、半分は英語がほとんど(あるいはまったく)話せないので、お互い身振り手振りも多々、という緩さもあったというのもありますが。
BYOは無理~
オーストラリアのレストランでは、BYOというシステムがほとんどのお店にありました。”Bring Your Own”の略で、自分たちで買ったワインを持込OKというものです。
ただし有料(一人2ドルくらい)のサービスです。ワインはいったんお店が預かり、グラスとともに改めてサーブします。
この際、スタッフがコルクをあけるという作業がありました。お客様がわざわざ持ち込むぐらいですから、往々にして好きな銘柄だったり、思い入れのある記念品であったりするため、コルク栓を持ち帰る方もいらっしゃいました。
私はとんだ不器用なので、この大事なコルクをぐちゃぐちゃにしかねません。やれることはがんばったつもりですが、申し訳ないけれどこれだけは、ほかの人にふって逃げ続けました。すみませ~ん。
「チップ山分け」と「まかない」が楽しみ♪
オーストラリアではチップの習慣がありません。なので日本人にとっては買い物が楽なのですが、働く側の「うま味」は軽減するといえなくもないところ。
しかし「心付け」くらいはあるし、観光客の欧米人はまあまあチップをくれました。数や額としては、それほど多くはなかったのですが。
そして良心的なオーナーの指示で、うちの店ではもらったチップはその日のスタッフ全員で均等に山分けするのが慣例でした。少ない日は総額10ドルないなので一人1~2ドルとかになりますが、帰りに小銭をもらうのがお小遣いのようで嬉しかった。一番多かった(忙しかった!)日では、一人15ドルくらいもらえたこともありました。
さらにお店の料理を「中華風日本食」と悪口を言っていましたが、これを「まかない」でいただけるのは最高でした。だってそもそも中華料理がおいしいのは、言うまでもない事実。
私は飲食店で働いたことがなく、「まかない」自体に憧れもあったのでより嬉しかったものです。営業終了後、残り物(寿司とカキ以外)を食べることができ、その日廃棄するものであれば持ち帰りまでさせてくれました。
日本人スタッフは軒並み、ギトギトのチャーハンにカレーをかけて食べるギルティ飯が病みつきだったのも懐かしい!
一緒に働く面々

日本人スタッフはよき仲間
そんな日本人スタッフの要は、留学ビザ(昼間は学校)の30代社会人女性二人(訳アリっぽい)でした。いずれも英語が堪能で、仕事ぶりも実に有能。彼女たちが毎日どちらかは必ずいてくれるので、とかく心強かったものです。
スチューデントの彼女たちは、ワーホリのような期間縛りはないけれど、週に働ける時間に上限があります。イミグレ(移民局)の監査で引っかかったら強制送還なので、そこをきっちり見て出勤していました。その少し前にチャイナタウンで大きなガサ入れがあって、近くのお店が摘発された恐怖体験をしたとも聞いています。
私以外のワーホリ組は、23歳の女の子が一人(いい子だけど少々合わないタイプ)と、28歳の男性が二人。みんな爽やかな見た目(で選ばれたらしい、私も?)ではありましたが、特に男性陣の一人は前職がホームシアターの営業マンで、売り上げ社内一になったこともあったという猛者。お客様にも人気でしたが、ゲイ男性に言い寄られることも多々あるのが悩みでした。
いずれにせよ日本人メンバーは皆、日本語で会話もできるし(欧米観光人が”Oh,Sushi-chef!”と寿司を握る中国人オーナーの写真を撮っているのを「ニセモノだけどね~」とこっそり言い合うのもお約束)、「仕事」の日本人的感覚もツーカー(みんな同時に気が付くし、全員即行動するし)で、実に働きやすい環境でありラッキーでした。
「微笑みの国」を体感
ところで先にもお話した厨房のドンさんは、英語が一言も話せないため誰とも会話はできません(どうやって働けたんだろう?)。
しかし彼女はいつもニコニコして、一緒にいる人を和ませてくれました。彼女を見ながら、日本人スタッフの一人が「さすが微笑みの国だよね」と言うのを聞き、私は初めてタイがそう呼ばれていることを知りました。
当時40歳前後だったでしょうか。家族はいるようですが、子どもの有無なども全然わかりません。しかしまかないを食べる時には率先して取り分けてくれたり、クリスマスにめちゃめちゃかわいくアイシングされたクッキーを作ってくれたり。
一切言葉は交わさなくてもみんな彼女が大好きでした。
ワーホリ期間中に何度も何度も感じたことですが。人がつながるのは決して言葉や文化だけではないのだと思い知る、忘れがたい出会いの一つです。
オーナーの人柄に救われる
それにしてもオーナーは本当にいい人(ニセモノ呼ばわりしてすみません)でした。
店を出るのが夜中(0~1時くらい)だというのもあって、帰りはバイト従業員全員を家まで送り届けてくれるのですが。帰り道の車の中では、いつも仕事や生活の様子を気遣う声かけをしてくれていました。
ある時私は、仕事で失敗をしました。意地悪な若い中国人カップルが、すごく色々聞いてきたときのことです。私は注意深く返答したつもりでしたが、なんと彼らは私を指して「彼女が何個でも食べてもいいといった」と言い張って、一人6個のカキを再度要求してきたのです。
私の英語力の低さに目を付けての「言いがかり」であることは明白でした。ホールマネージャーが説明しても納得せず、オーナーが説得に向かい。結局12個提供したことで、彼らは満足したのでした。
オーナーは笑って「気にしなくていいよ」と言ってくれたのですが、みんなに迷惑をかけたことが申し訳なくて、自分がふがいなさすぎて。帰りの車で「今日はすみませんでした」と言った際に、思わずギャン泣きしてしまいました。
オーナーだけでなく、乗っていたほかのスタッフも「泣いた人は初めてだ~」とみんな笑っていましたが。その優しさに、また涙が止まらなかったものです。
記憶に残るお客様
なぜか気の合う常連さん
先の悪意ある中国人カップルのような輩もいましたが、お店では大好きなご夫婦のお客様との出会いもありました。40歳前後であろう中国人夫婦の常連さんです。
初めてお会いした時「感じがいい二人だなあ」と思ったのは両想いだったようで。彼らも私のことを「あの子いいね」とホールマネージャーに話していたと聞きました。
例によって彼らは英語がまったく話せず、私は中国語が一言もわからないですから、実際に会話をしたことは一度もないんです。でもいらっしゃるたびに私を見て顔をほころばせ、私も彼らを見ると自然と笑顔になる。お会計では毎回「彼女に」と、私宛のチップもくださっていた(もちろん山分けですが)とも聞いています。
言葉に頼らないからこそ、なぜか通じ合う相手の存在に敏感になれるのかもしれませんね。
これが本物のチャイナ服!
このお店では、なんらかの記念日やお祝い事のお客様も定期的にいらしたのですが。
おそらく米寿あたりのお祝いで、中国人の10名ほどのグループがいらっしゃった時のことです。
主役のおばあ様がお召しになっていたチャイナ服が、それはまあ素敵でした。
日本人が「チャイナ服」といって思い浮かべる、セクシーなチャイナドレスは正装ではありません。これはヘタをすれば、娼婦の恰好ともいえるシロモノだそうです。
日本の着物にあたるようなチャイナ服は、上下セパレートで下はズボンのもの。アオザイに近いでしょうか。太極拳をしているおばちゃんたちが着ていそうなやつです。
そうしてそのおばあ様が着てらしたチャイナ服というのが、一目で「いいもの」とわかる生地と仕立てでした。あとは彼女の立ち居振る舞いと、醸し出す雰囲気にも非常にマッチしていたのもあるでしょう。
そうか、これが本物か!よもやオーストラリアの地で、お目見えすることになろうとは。人生って思いがけないからおもしろいですよね。
オーナーの気づかいは仕事以外でも!
年越しを一緒に
欧米においてニューイヤーイヴ(大晦日)は大イベントです。
旧暦のチャイナタウンにある店は通常営業でしたが、世の流れ的に?いつもより早めの23時には店じまいでした。
とはいえ同居のユミはバイト先の仲間(仕事は休み)でお出かけをしていたので、帰っても一人だなあと思っていると。オーナーと従業員(姪だったはず)の二人が、一緒に年越し花火見に行く?と誘ってくれました。
シドニーと言えば、世界で最初にカウントダウンを迎える大都市(日本より2時間早い)です。シドニー湾にかかるハーバーブリッジで、花火が打ち上げられることでも有名でした。
私たちは地元民オーナーの運転で、橋を見渡せる絶景ポイントへ向かいました。そこそこ人はいましたが、人込みと言うほどでもない穴場です。
カウントダウンが始まり花火が上がると、橋が燃えるんじゃないかという勢い!日本では考えられません。オーナーへの感謝で迎える、思い出深い新年なのでした。




お店の仲間で海へドライブ!
思い返すほど、つくづくいいオーナーでした。
ある店休日に、オーナーが従業員を海へのドライブに誘ってくれました。先にカウントダウン共にした二人に加え、日本人従業員3名でベアアイランドフォートという観光地に向かいます。
かのクック船長が「裸の島(Bare Island)」と呼んだ、映画「ミッション: インポッシブル」の撮影が行われたこともある景勝地です。
同行した留学ビザのお姉さんは、英語も堪能な上に話もおもしろくて、冗談や軽い下ネタまでぶっこんで道中を盛り上げてくれました。
海では海水浴を楽しみ、シェフでもあるオーナーがとれたてのウニをみんなに振る舞います。
晴れた海、楽しい語らい。まさか仕事仲間とこんなひと時をすごせようとは。



でも実はこの頃、私はバイト生活の日々に疑問を始めておりました。非日常だと思っていたけれど、慣れてくると「ただ普通に仕事をしている日常」に感じてしまい、なんのためにここにいるのだろう?と思えてきてしまったのです。
「辞める」ことを告げ、飲茶パーティへ
仕事は楽しい、オーナー(上司)も尊敬できて大好き。この先職を転々とする私は、それがいかに僥倖であるか、どこかでわかってもいたのですが。
そぞろ神のものにつきて心を狂わせ始めた私は、マックスの3か月を待たずにお店を辞めることを決めました。
先に日本人のスタッフに告げ、「英語でなんて言えばいい?」と確認すると”I quit.”って言うだけでいいよ、とのこと。
もっといろんな言い回しもありそうだけれど、どのみちみんな短期間で去る場所。オーナーも心得ていますから。
そうして辞意を伝えると、なんとオーナーがお別れ会兼親睦会をしてくれました。仕事前の日中に、チャイナタウンの点心専門店でごちそうしてくれたのです。
料理人であるオーナーのお眼鏡にかなった、本格的でおいしい中華料理の軽食たち。従業員みんなで、わいわいと囲むテーブル。私の人生における宝物のような一日となりました。
最後の出勤日に、オーナーは私が旅先に決めていたパース(Pearth)のおすすめカフェを教えてくれたのですが…実はそのメモをなくしてしまうという不義理だけが、今も心残りです。

お仕事以外のシドニーでの日々
話は前後しますが、お仕事を始めた頃からシドニーでの生活も慣れ始め、シェアメイトと交流を深めたり、ケアンズの学友と再会したり。日常生活でもいろんなことがありました。まずは、なんと私の母がやってきてところからお話いたしましょうか。
母来る!
意外と家族も訪れる
ケアンズではユミのお姉さん夫婦と、なんとおばあ様がいらしたことがありました。
私も友人カップルが来ましたし、ほかにも家族や兄弟が「せっかくだから居る間に」と訪れてくるワーホリメーカーはちょいちょいおりました。
実は私の母が無類の旅好きで、その話をするたびにウズウズしていたようです。そしてとうとう2004年の年明け、単身でシドニー旅行を決行いたしました。
しかも英語が一言も話せないくせに、カンタス航空でブリスベン乗り継ぎという暴挙。海外では気軽に携帯で通話もできない時代です。シドニー空港で待ちながら、本当に来るんでしょうね?とこちとらドキドキでした。
しかし母は生きる力があるので、「日本語を話せる人についてって、乗り継ぎ場所まで一緒に行った」とのこと。独身時代7年間大阪で働いていた母は、そういえば折に触れて関西のおばちゃん的な行動力を発揮していたのを思い出します。
ルームシェアで雑魚寝の4泊
ホテルをとるべきだったかもしれませんが、せっかくだから私の生活を見せたい。ということでシェアハウスのオーナーに許可をとり、私とユミのルームシェアに母を泊めることにいたしました。シングルのマットレスで私と二人、寝苦しかったことでしょう。
ところで国のお母さんとしょっちゅう長電話していたオーナーは「いいなあ、お母さん来て」とすごくうらやましがって、ものすごい笑顔で”How are you?”と母を迎えてくれたのですが…人見知りしない母が、固まって一言も返せませんでした。
ともすれば無双状態の団塊の世代ですが、英語の壁は高かったようです。

シドニー観光!
母とともにシドニーの町を散策し、好きなカフェにも連れて行き。ザ・観光のハーバーブリッジウォーキングにも参加しました。ユミとトモミも誘って、ハーネスをつけて大興奮です。
シドニータワーのレストランにも行きました。バブルの頃日本でもはやった、1時間で一周するタイプのやつです。ケアンズで友人夫婦にワニ肉をご馳走になりましたが、ここではカンガルーとラクダを食しました。特別おいしくもなかったけれど、すべては経験です。




バックパッカー向けのツアーも
ケアンズでもよく利用していた、バックパッカー向けのツアーにも母は参加しました。20代の若者しかいない、郊外の自然散策のプログラムです。
バスで移動するとはいえ、要所要所で足場の悪い山道などを歩くもので。運転手兼ガイドのおじさんに「彼女歩けるのか?」と心配されましたが(今思えばまだ56歳でしたが)、母は最後まで元気で楽しそうでした。短い旅ながら結構やり切りました。
もちろん母が帰国した後は、ちょいとばかりホームシックになった26歳の私です。



台湾人のシェアメイトで広がる世界
もう一組のシェアメイトご夫婦
前回も少しお話しましたように、もう一部屋には日本人のご主人と台湾人の奥様のご夫婦が生活しておりました。
旦那様は仕事が忙しく、ほとんど交流はなかったのですが。台湾人の奥様とは、リビングでしょっちゅうおしゃべりしたり、一緒にイベントなどに出かけたりするようになりました。ユミと彼女は喫煙者。ベランダで一緒に紫煙をくゆらせたのをきっかけに、打ち解けたのが始まりです。
ちなみにユミはよく喫煙所をきっかけとして、交友関係を広げていました。私はタバコを吸わないし正直嫌いな方ですが、喫煙場で築かれた人間関係は、今でもうらやましいと感じさせられることがあります。
さてこの台湾人女性ですが、非常にオープンな性格で自身の生い立ちを語ってくれました。
波乱万丈な彼女の人生
彼女の出自は、もともと中国本土だそうです。しかし軍人だったお父さんの仕事の関係で、彼女が幼いころ家族で台湾に移り住みました。ところがその直後、お母さんは病気で他界。彼女はお母さんの記憶がほとんどありません。娘と二人きりになった父親は、接し方がうまくわからなかったのか。食事の用意など家事はするものの、ほとんど一緒に過ごしたことはないそうです。月に一度お小遣いをもらう時だけ、面と向かって話しをするくらいだったとか。
やがて学友も増え、英語系の短大にも進学。外の世界とのつながりを深めていた最中、お父様が急逝されました。
いかに希薄な関係といえ、むしろつながりが薄かったからこそ、その喪失とあらゆる後悔は彼女に大きなダメージを及ぼしました。学校こそ卒業したものの、うつ状態となり家にひきこもる日々。
その時、交際中だった恋人が献身的に世話をしてくれたのでなんとか立ち直ることができたそうです。
ところが、その彼は資産家の息子だったこともあり。定職に就くこともなく自堕落な日々を送り、あげく薬にも手を出していたのだとか。はじめは彼を支えなければと思ったものの、自身もまだ不安定な状態。このままでは共倒れになってしまう。
父親の残した遺産と遺族年金があった彼女は、彼と離れるためにイギリスへ留学。そこで出会ったのが今の旦那様でした。
旧正月を教わる
2004年の旧正月である1月22日、台湾人の彼女は朝から何かと準備をしております。
その日私の勤め先は当然お休みで、ユミも仕事がなく一緒にリビングでくつろいでおりました。
不遇の子ども時代を過ごした彼女は、「子どもをもたない」と固く決めており(もちろん旦那様了承済み)、「やること」と「やらないこと」の線引きがはっきりしていたせいか?普段一切料理をしませんでした。そんな彼女が手際よく餃子づくりを始めたのでユミと私は仰天です。
聞けば台湾では、旧正月に餃子を作る習わしがあるということで、どうやらこれは彼女にとって「やらなくてはならないこと」だったようです。
餃子づくりは自体は、日本人にとってもさほど特別なことではありませんから、誘われるままにお手伝いをすることになりました。作るのは水餃子。私はこの時初めて、台湾や中国では餃子を焼かないことを知ってびっくりします。
そうしてできあがった餃子に、彼女が用意した赤い味噌のような調味料をつけて食べると、おいしくてこれまたびっくり。台湾の一般的な食べ方で、この10年後に台湾旅行にはまる私は、台湾でこれを食べる度にこの時の驚きを思い出すのでした。
餃子を食した後は、3人でチャイナタウンに出かけました。そこではにぎやかなお祭りが開催され、獅子舞がねり歩いております。「福」が起こっちないように、「福」という漢字がさかさまに飾られていることも、このとき教わりました。私ってば、本当に何も知らなかったなあ。
バイト先のオーナーと迎えた年明けとは別に、また新たな思いで迎える旧暦のお正月なのでした。
オーストラリアの日
1月26日はオーストラリア・デイ(Australia Day)と呼ばれる祝日です。
クック船長がシドニー湾に上陸した日なんだそうで、特にシドニーでは盛大に祝われ、街はオーストラリアの国旗一色。この日もシェアメイト3名でお出かけしました。
国旗のタトゥシールや、小さな旗が配られ、みんな楽しそうです。私の浮かれ具合も、写真の恰好からうかがいしれることかと。

ただこの時はあまりわかっていなかったのですが、移民が上陸した日ということは「先住民が侵略された日」という負の側面をもつ日でもあるわけです。
国では同時に各地でデモも行われ、現在ではこの時のようなお祝いはしなくなっているそうです。あまりにも無知な自分が今思えば恥ずかしい限りですが、それでも「オーストラリアを愛する一人」の楽しかった一日として、心に刻まれていることをお赦しいただきたい。
親友と同居するということ
あんなに好きだったのに
ところでケアンズに居たときは、片時も離れたくないくらい大好きだったユミ。一緒に暮らしたらどんなに楽しいだろうと思っておりました。
実際はじめは互いの生い立ちや好きなもの、過去の恋バナなど、起きている間中どうでもいいおしゃべりが止まりませんでした。しかし「友人と同居すると仲が悪くなる」と聞いたことはありませんか?
私もご多聞に漏れず。次第に話題が尽きてくると、四六時中一緒にいるユミがうっとうしく感じてきました。互いにちょっとしたクセが目につき、それまで気にならなかった習慣の数々が気に障ります。そしてその傾向は、私の方がより強かったように思います。
配慮は徐々になくなり、ついついきつい態度をとるようになりました。
シェアメイトも苦言を呈する
台湾人のシェアメイトは、はっきりモノをいう人でした。とはいえ私たちの関係性については、しばらく俯瞰でみておりました。しかし私の態度があまりにひどかったのでしょう。のちに聞いた話では、ユミには同情するように声掛けしていたようです。
ある日、さすがにユミがキレました。私は、ああついに友情も破綻だなと思ったのですが。
彼女は「あんたがどうしたいか知らんけど、私はこれからもあんたと友達でいたいと思っている」と言ってくれました。その後、私たちは思いのたけをぶつけ合います。
私のイライラは自身を締め付け、ユミに対しては取り返しのつかないところまで来ている。それでもユミは私との関係を反故にするつもりはないとわかり、私の中でユミへの屈託は少しずつ消えていきました。
そうしてようやく、私たちは本当の友達になりました。
シェアハウスの面々との思い出
海を眺めてのBBQ
社交的なユミや行動力のある台湾人シェアメイトが計画して、オーナーも含めたシェアメイト全員でBBQを楽しんだ日がありました。
みんなのスケジュールの合う日中に、買い出しに出かけそろって目的地へ向かいます。
オーナーは数年前にオーストラリアの永住権を取得していたのですが、その直後から申請が難しくなったという話しをしていました。実はもう一組のシェアメイトも永住権を目指していたのですが、どうも厳しそうだということも話題にあがっておりました。
ちなみに当時の永住権は点数制で、年齢や学歴(学位・博士の有無)がけっこうなウエイトをしめており。医師や弁護士、通訳や翻訳などの専門職(国に貢献度が高い)人はさらに加点されるシステムでした。まあそんな世知辛い話もほんわかと流れる、オーストラリアの空と海。なんだかしみじみと思い出される一日です。

実はオーナーは超自己中でした
にこやかで感じがよく、見た目もかわいらしいオーナーのアニー。しかし彼女、なかなかの曲者でございました。
一度アニー・ユミ・台湾人シェアメイト・私の女子4人でクラブに行ったのですが。その際彼女は、童顔のオージーガイを一人お持ち帰り。それは別に全然よいのですが、彼女「日本人の女の子ってなんでモテるの?私たち(インドネシア人)も見た目似てるのに。だから私日本人と飲みに行って、日本人のフリするの」と言っておりました。
いや、多分バレてますよ。
そもそも彼女、日本人をなめてました。シェアメイトを日本人に限定するのは、文句を言わないから。台湾人の奥様に関しては「日本人夫婦だと思って騙された」とこぼしていましたね。
そんな彼女は、例えばリビングの電話は共用といいながら、誰かが使っていても自分が使いたくなったら「早くきって」と横であおってきます。
洗濯干し場は狭いので譲り合うのですが、定期的に彼女が完全に独占します。
リビング自体共用のはずですが、みんなに断りなく友人を長期間泊めさせたこともありました(彼女はいい子だったけど)。
私とユミが家を出ることになった時は「次の日本人を見つけたら出ていいわよ」とも言われました。日本人向けに掲示板を出すと、運よくすぐ次が決まったのですが、心の中では「身代わり地蔵」おいてく心持ちです。
部屋を出る時には、「何か書いて」とサイン帳を渡されたのですが。そこには先々代のシェアメイトたちが、彼女向けの英語のメッセージThank you Anny!の横に、「日本人バカにしすぎ」「少しは大人になりなよ」という、ほぼ呪詛の日本語もつづっておりました。気づけよ。
【閑話休題】慣れが引き起こす危険
海外の危険は自業自得
日本人向けフリーペーパーでは、日本人が合った犯罪行為が注意喚起として毎回取り上げられました。銃が合法でない豪州だからと、知らない相手にすぐさま家のドアを開け銃を向けられたり、酔いつぶれた女の子が一人でタクシーに乗ってレイプされたり。
そう聞くと、やはり海外は怖い!と思いますか?
いいえ、読んだ在豪日本人はみんな白けます。え?相手を確認せずドア開けたの?酔った女の子を一人でタクシーに乗せたの?あるいはそんな仲間と飲みに行ったの?
どう考えても自業自得。「郷に入っては郷に従え」は旅人の鉄則でしょう。日本と同じ感覚で行動して「海外って危ない」っていう輩は、そもそも海外に出るな。心の底からそう思っています。
だから宿の共同冷蔵庫に入れたビールが飲まれても、ちょっと目を離したすきにデジカメがなくなっても、誰も同情なんかしません。
といいつつ、慣れはうっかりを引き起こすのですが。
被害は慣れた頃に
シェアメイトの台湾人女性が「私は中国人を知っているので、中国人を絶対に信用しない」と言って、チャイナタウンでは必ずリュックを前に抱えて警戒を怠りませんでした。
そんな姿を見ていたのに、そこでバイトをし入り浸っていた私はどこかで慢心したのでしょう。マーケットのトイレで、個室に入っていた時にうっかり携帯を落とし、ドアの外に滑り出てしまった際。すぐに飛び出さず、用を足してからおもむろにドアを開けました。
時間にして1分なかったでしょうか。日本なら、そこに落とした携帯があるはずです。しかしもちろん、そこでは影も形もありません。
すぐにユミにかけてもらうと、一回出て切られたあと、もう一度かけると次は圏外に。どう考えても意図的。それでもまだ一縷の望みを託して、私は総合案内所に向かいました。
「さっきトイレで携帯を落としたんだけれど、もしかして届けられていませんか…」
案内所の中国人女性は「ここ、チャイナタウンですよ?」と鼻で笑って、取り合ってすらくれませんでした。日本人丸出しな平和ボケですみません。携帯委託金の300ドルは露と消え、手痛い授業料となりました。
母国語で叱られると響く
最初にキンクロという治安の悪い場所で過ごしたせいでしょうか。私は、危ない地域も気を付けてさえいれば大丈夫!という変な自信が芽生えてしまい、シドニーの住宅街の「危ない」と有名な地域を近道で抜けようとしたことがありました。
真昼間のそこで、向かいから白人の男性がやってきました。彼は険しい顔つきで近づいてきます。その男性は「宮島」と漢字で書かれたTシャツを着ており、流ちょうな日本語で「日本人ですよね?」と問いかけてきました。「あ…はい」と身構える私に「ここが危ないエリアだと知っていますか?日本人の女性が一人で歩く場所ではないですよ!」と強い口調で続けました。「すみません、気を付けます…」そうして彼はプリプリしながら去っていきました。
結局危険な目に合わず、親切な人に会っただけですが。その日本語の説教は効きました。
そういえば、タレントのカイヤさんと川崎真世さんがまだご夫婦の時に、ケンカの際にはカイヤさんは日本語、真世さんは英語で話すとテレビで言っていたのを思い出しました。その方が相手に響くからだと。
なるほど、大変よくわかりました。
韓国人シェアハウスでの交流
トモミと韓国人の彼
出会いときっかけ
さてまたまた話は遡りますが。ケアンズの語学学校で友達だったトモミは、私と同じ入学&卒業ですが。私やユミとはまた別の経路でシドニーを目指して参りました。
ところで宿や移動もろもろ、単身だと経費がかさむのは想像に難くないでしょう。誰かとシェアすることで、例えばタクシー代や食費など、半分どころか三分の一にもそれ以上にも安くおさえられます。よってバックパッカーにとって、気心の知れた人と行動を共にするか、旅先でタイミングの合った人と協力するのは当たり前のこと。
トモミも旅の途上で知り合った韓国人デソン君と、なりゆきで宿をルームシェアをすることになりました。
割り切って部屋を共にすると言えど、健康な若き男女に何もない方がおかしいでしょう。当然一線を越えた彼らは、無事?シドニーでも同居を始めたのでした。
しかし実は、彼には国にガールフレンドがおりました。毎晩のように彼女に電話をかける際に、「サランヘヨ」と言っているのをトモミも耳にしたことがあると言います。
バックパッカーあるあるの「海外ではシングル」状態か?この野郎。
老婆心で問い詰める
彼らの関係性について、実際トモミも動揺しているところがあり、こちらはトモミの友達側ですから。最初は「なんて悪い男だ」と彼に非難の目を向けておりました。
ところがいざ会ってみると、彼は誠実そのものの好青年です。
私はもともと、友達の彼氏を詰問するクセのあるほうで。この時もトモミとユミをおいて、彼を連れて別のテーブルに移り「彼女がいるって聞いたけど、君は彼女とトモミのどっちが大事なの?」と問い詰めました。デソン君は一瞬困った顔をした後”Same.”と返しました。
おんなじ。それはむしろ、トモミの方に惹かれて揺れているということじゃないのか?私はさらに、トモミが本気ならどうするのか、彼女にバレたらどうするのか、といった意味合いの質問を続けました。聞くほどに彼は、彼女は大事だけどトモミも大切にしたい。そして最終的に、もし望まれたならトモミを選ぶとも答えました。
この時点で私はすっかり彼に肩入れすることに。「トモミ、韓国に嫁げ」と言うと、私の裏切りに「え~」と抗議の声をあげるトモミなのでした。
惚れた弱み
ところで国際カップルを見ていると、えてして立場の弱い方が相手の母国語を覚える羽目になるのがよくわかります。
韓国人シェアハウスに住み始めたトモミは、韓国語を極めるかと思いきや。高校で日本語を少し勉強していたというデソンが、国から当時の教科書まで取り寄せ日本語を使うようになると。トモミは容赦なく日本語でしか彼に話しかけなくなりました。
そんなわけでデソン君は、会うたびに信じられないスピードで日本語が上達。そんなある日、トモミ・ユミ・私でおしゃべりをしていて、隣で彼がニコニコとそれを聞いておりました。後からトモミが「さっきの会話どのくらい分かった?」と尋ねると「トモミとユミの言っていることはほとんど分かった。ユカの言っていることは一言もわからなかった」とのたまわったそうです。
何を隠そうワタクシ、頭が悪いとしか言いようのない早口。気を抜くと自分でも、何を話しているかわからなくなります。対して二人は、穏やかな口調でゆっくり話します。そうか、そんなに私の言葉はききとりづらいか。
にしてもデソン!味方の私の言葉がわからないなんて薄情すぎませんか。まあ当然です、私に対して愛情のかけらもないですからね。チクショウ。
韓国人シェアメイトたち
二人以外のメンバーは?
彼らのシェアハウスは、トモミとデソンの部屋以外に2部屋あり。一部屋には大学生の韓国人カップル、もう一部屋には韓国人の男性が一人滞在しておりました。ユミと私はたびたびそのシェアハウスを訪れていたので、彼らともすぐ仲良くなりました。
一緒に鍋パーティをしたり、バーに飲みに行ったり。ほかの韓国人の子が遊びに来たり、シドニーに来た語学学校仲間のほかの日本人も一緒に訪れたりもしました。
語学学校時代とはまた違ったアジア人グループとのひと時は、さらに互いの理解を深めたように思います。日韓の軋轢が生じる度に、個人同士ならいくらでもわかりあえるのに…と切なく感じます。

歴史は無視できない
しかしたまに遊びに行く我々と違って、さすがに四六時中韓国人コロニーにいるトモミはちょっとした洗礼を受けます。
みんなで普通にご飯を食べていた時に「ところで靖国神社についてどう思っているの?」と問われたそうです。特に何も思っていなかったトモミは、素直にそう答えたそうですが、そこにいたみんなが彼女を凝視していたのだとか。聞いてるだけで背筋が凍ります。
語学学校でも、思ったより韓国人と日本人は壁がないと思いましたが、どうしても消せない歴史的背景は依然あるのです。
実際にデソンが日本人の女の子と付き合い始めた…ようなことを親族(家族でとどまらないらしい)に匂わせると、賛成反対半々だったようです。ただ自由に海外で交際している分には支障を感じませんが、もし結婚などとなったら…やはり現実的に相応の覚悟が必要になるのでしょうね。
トモミの恋の行方
さて楽しい韓国人グループとの交流でしたが、ついにデソン君が帰国する日がやってきました。
シェアハウスメンバーに、ユミ・私を加えて空港へお見送りに。
最後の搭乗ゲートに向かうところで、デソンとトモミは笑顔で向き合い、キスをして別れました。二人にとってそれは、甘い関係の終焉でもあります。二人が笑顔であるほど、見ている方が胸を締め付けられます。気が付けば、ユミと私の方が涙しておりました。
その後、二人はしばらくメールのやり取りはしていたそうですが、やがてそれも終息します。
ちなみにまだメールをやりとしていた頃に、ともみがヨーロッパの旅行先からデソンにハガキを送ったそうですが、それが手違いで2年ほどの時をかけて彼に届いたようで。久しぶりに彼から「僕のことをまだ覚えていてくれたんだね!」と感激のメールが来たそうです。
やっぱりいい味出してる逸材だったわあ。
そして旅立ちの時
ケアンズの語学学校で、最初の一週間ものすごく仲良くなった女の子の話を以前させていただいたのですが。彼女レイナとは、その後も頻繁にメールのやりとりをしておりました。
ケアンズには一カ月滞在していたのですが、次はもう少し長い期間オーストラリアに行きたいと言っていた彼女。そこで私がお世話になった無料エージェントを紹介したところ、そこを介して西の都市パース(Pearth)へ、すでに年明けより3か月の語学留学に来ておりました。
そのため私は、ラウンド(オーストラリア国内の旅を、日本人バックパッカーはこう呼んでいました)を始めるなら、まずパースと決めていたのです。
しかし2月後半に開催されるシドニーのゲイパレードは外せない。そこで空路5時間(偏西風の影響で逆は3時間)でまずは大陸を横断して一気にパースへ向かい、ゲイパレード開催日前にシドニーへ戻るために、南回りの旅程スケジュールを綿密に組んで空路やバスなどの予約もすべて終えました。そうして万全の準備の末に、シドニーを旅立ったのは2月初旬のこと。そのパースで、まさか恋をすることになるとは夢にも思わずに。
詳しいお話は、恋するラウンド編に続きます!


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