はじめに
2023年の打ち間違いではありません。2003年です。今年48歳を迎える私が、26歳の時のお話です。20年以上前のことですので、今後ワーキングホリデーをお考えの方の参考になるかどうかは、はなはだ疑問なところです。まあ普遍的な部分もかなりあるとは思いますが。
自分も行ったよ!という方にはいろいろ懐かしんでいただけるでしょうし、行きたかったんだよね~という方には疑似体験をしていただけるのではないかと。ご興味をお持ちになりましたら、お目通しくださいませ。

きっかけのアメリカ旅行
私にとっての「英語」
中学生の頃は「英語ってなんて簡単な科目だろう」と感じるだけで、好きでも嫌いでも興味もなかった私。
高校に入って急に難しくなってからは「いや私一生日本で暮らすし、英語とかいらんわ」とただただ毛嫌いするように。
大学の一般教養にいたっては、必修の語学は逃げのフランス語と中国語を選択(無論どちらも基礎すら身につかず)、いずれにせよ二度と英語にはかかわらず生きていくつもりでした。
最初で最後のつもりの海外旅行
しかし大学卒業を前にして、卒業旅行なるものを計画した折に。ちょうどいとこがアメリカ留学中だったこともあって、まあ一生に一度くらいは…と渡米を思い立ったのでした。
いとこの留学先は、東海岸は北部のシアトル。
二週間の滞在予定で、大学の友人一人と、当時大阪の学校に通っていた妹の3人で、関空を飛び立ち8時間+乗り換え1時間のフライトを決行。
到着先の空港には、いとこの学友が車で迎えに来てくれました。
初めての海外。
太陽と並走して日付変更線をまたぎ、強烈な時差ボケの中降り立つ異国の地。
行く前はそれほどでもなかったはずなのに、いざ到着すると興奮で打ち震えました。
大学4年間を沖縄で過ごした私にとって、アメリカ人など見慣れていたし、そこに広がるのは、日常的に外から目にしていた基地の風景と同じ景色。
だから目新しいことなどそれほどないと思っていたのに。
空気が違う。空間が違う。体が心が、物理的にあり得ない距離を飛び越えてきたことを実感している。こればかりは経験してみないとわからないことでしょう。
期待すらしなかったアメリカという体感
その後いとこの案内で、シアトルの町を散策。
当時まだ日本には(知る限り)数店舗しかなかったスターバックスの1号店へ行ってみたりしました。注文はもちろんいとこ頼りでしたが。
映画がものすごく安くて(3.5ドル位だったかな)とりあえず一本見てみましたが、全然聞き取れないし、時差ボケで眠くて仕方がない(マイケル・ダグラスが出ていたことしか記憶がない)。
そして古くて薄暗い感じがノスタルジックの町並みを楽しむも、店が夕方6時に閉まるのにはちょっと閉口。
夜は予約してもらったすてきなB&B(ベッド&ブレックファースト)に二泊しました。
部屋には音楽家たちの名前が付けられ、私たちの泊まったのはたしかSchubert。
しかし夕食も朝食もやたらしょっぱくて残念。
なるほど、アメリカの食事はまずい、って本当かも。
いずれにせよ目にするもの体験することすべてが新鮮で。
自分はなんて小さな枠に収まっていたんだと思い知らされるのでした。
東海岸縦断鉄道旅
学校の授業があるいとこが付き合えるのは二日ほどだったため、前もって予約してもらった鉄道(アムトラック)の2週間東海岸乗り放題のチケットで、英語のできない3人で縦断旅に出ることになりました。
27時間かけてLAに着くと、また違った町並みにアドレナリン放出しまくり。
今や大谷君大フィーバーのアナハイムで、ナッツベリーファーム(スヌーピーのテーマパーク)やディズニーランド(フロリダのワールドではなく、東京のそれとほぼ同じ施設)を満喫。
買い物をしたり海岸線を散歩したり、アムトラックでまた何駅か進んでみたり。カフェでお茶したり、チャイナタウンで食事をしたり。
片言の英語でもそれなりに楽しんだのでした。
そう、「それなり」に。
英語が話せないことの弊害
買い物で店員さんが「二つ買ったら一つおまけですよ」的な説明をしてくれたのに、まあ聞き取れず困らせたり(すごく根気強く繰り返してくれた)、レストランではとんちんかんな注文をして、思ったメニューが出てこなかったり。
小娘3人旅が珍しいのか、老若男女いろんな人が声をかけてくるものの、何を言っているかさっぱりわからず、相手もしばらくするとあきらめて去っていく。
白人のおじいちゃんが”Korean?Japanese?”と聞いてきたので”Japanese”と答えると、何やら熱心に話し始めるので、今度はわかったふりして「うんうん」うなずいていると“Pearl Harbor”という不穏な(わけではないが)単語が聞こえてきて、慌てて逃げる羽目になる。
日が経つにつれ、英語が話せたら!と心の底から思うようになりました。
ワーホリで渡豪するまでの経緯
「花のOL」は夢の世界
この卒業旅行ですっかり開眼した私は「英語が話せるようになって、長期で海外を旅したい」と思うようになりました。
しかし帰国後に待っていたのは、ぬるま湯の学生生活とは異なる激務の会社員生活という現実。
就職氷河期に運よく入社できた大手保険会社。しかし契約・金融の世界はシビアです。まあ私はあくまで内勤事務で、今思えばただただ事務処理をこなすだけで、営業などのノルマの厳しさを体験したわけでもまいのですが。煩雑な書類以上に、人間関係にやられた感があります。
もはや私の黒歴史なのですが、わからないからできない、できないからやらない、放置したものがわけわからない。一人負のループに陥ってしまって。
やることは中途半端でいい加減なくせに、一人前に精神はどんどん崩壊していって。
朝は吐き気がするし夕方には涙が出るし、まあ普通に軽度の鬱でしたね。
しかし我々の世代は「どんなに嫌でも3年間は勤める」のが常識でしたから、「3年したら辞めて、アメリカに行く」と思い定めて、それだけを励みに日々を過ごしていたのでした。
そんなわけで留学情報誌や、普及し始めたインターネット検索を活用しているうちにワーキングホリデービザなる制度を知ることになったのです。
ワーキングホリデーという選択肢
「ワーキングホリデービザ」とは、「学生ビザ」と「就労ビザ」の中間的な立ち位置で、働くこともできるし、学校にも通えて、18~30歳までの1年間、基準を満たし手続きさえすれば、誰でも取得可能なビザです。
学生ビザは種類にもよりますが、バイトで得られる賃金がかなり制限され(働く目的ではないので)お金がかかります。就労ビザは、その国にとって有益な人材でないとおいそれとは得られません。
ワーキングホリデービザ、これはなんともおいしい制度じゃないですか!
結局オーストラリア一択
さらに調べてみると、渡航できるのは「カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・韓国・ドイツ・フランス、新たに加わったイギリス」(2001年当時)でアメリカは対象外。まあアメリカである必要はなかったんですけど、まずはアメリカしか知らなかった私。
そのころ、また別のいとがカナダ留学をしていたので(いとこは20人います)、始めたばかりのEメールでコンタクトをとってみると、9月のある朝「今日は氷点下だよ!」という返信が。
まじすか。生粋の南国人には生息可能区域ではない。
そもそもイギリスも気候が悪そうだし遠い。あと英語圏ではオーストラリアかニュージーランド。
すると会社内で、オーストラリア留学経験のある人物を2名ほど発見。
どちらも「すごく過ごしやすくていいよ~」と言っており、うち一人が休暇で再度渡豪をした際、現地の日本人向けフリーペーパーなどを持ってきてくれたのを受け、「英語が堪能でなくても生きていける」と確信。私の渡航先が決まったのでした。
英会話スクールが心の支え
社会人1年目はとても余裕はなかったのですが、2年目になると余裕とは別ながら、辞めた後のことを見越して「英語を勉強しなければ」と、英会話スクールを物色し始めました。
そして無理のないところで週1回、行けないときは振替もできる大手のスクールに決め、初心者のグループ英会話コースを申し込むことに。
正直そこ以外で、一切勉強しませんでしたし、やっぱり仕事で疲れ果てて、振替すらせずサボることもありました。
それでも「スクールに通っている」という安心感は、妙な肯定感となって私を励ましてくれました。
入会時に「いずれオーストラリアWH予定」と話していたので、それに関連した話題や情報がいただけたのも大きかったですね。
とにもかくにも情報収集
仕事ではポンコツながら、心はすでにオーストラリア。
とはいえ、具体的にどうすればよいのかは正直わかっていませんでした。
そんな時「オーストラリア・ワーキングホリデー」の無料説明会を発見。
あれってなんの団体が企画したものだったかしら…。
詳細は忘れたのですが、実際にオーストラリアでワーホリ体験をした方の体験を伺うことができるものでした。
語学学校がどんな様子だったのか(ブリスベンで学校へ)。
アルバイトはどうだったのか(オーペア:住み込みの子守を経験)。
かかったお金はどのくらいだったのか。
どこを訪れ、どんな出会いがあったのか。実際にどのようにしてビザを取得したのか。
そこで、ビザ申請や語学学校の手配にエージェント(手続き代行業者)という手段があることを知るのです。
エージェントは必要?
エージェントについて調べてみると、どこまで代行してくれるかはまちまちで、金額も異なるよう。
私は軍資金として100万円を計画していました。実際に働いて賃金を得ることができることも見越して。
しかしエージェントを通すと、準備段階ですべて飛びそうでした。
そこで調べた一つに「オーストラリア留学センター」なるサイトと出会いました。
なんと手数料無料。本当か?コンタクトをとってみると、語学学校の申込、到着後の住まい、航空券の予約申し込みまでを無料で行ってくれるとのこと。
いずれにしても、ほかのエージェントのような金額はかからなさそうなので、お願いしてみることに。
最高のサポートと出会う
2003年当時のワーキングホリデービザは、一つの語学学校・一つの職場で、いずれも3か月まで(今は4か月みたいですね)が限度でした。
よってまずはマックス3か月コースで、ほかの学校より少し高めだけれど内容のしっかりしていそうな語学学校を申込むことに。とにかく始めに英語力を少しでも身に付けないといけませんからね。
滞在方法としては寮やアパートもありましたが、思い切ってホームステイをしてみることにしました。
街は近くて暖かいケアンズを選び、関空-ケアンズのカンタス航空+12週間の語学学校費用+12週間のホームステイ料金(朝食・夕食込み)で50万円ちょっとというところでした。
3か月で初期費用の半分が飛ぶことになりますが、まあ逆に言えば3か月は安泰です。
資料や申請書はメールやファックスでやり取りでしたが、とにかく丁寧に説明を受けながら、すべての申し込みが完了。
あまりに親身になって対応してくれたので、最後に「本当に手数料はなくて、大丈夫なんですか?」と聞いてみると「実は学校からマージンがあるんですよ」と教えてくれました。
それなら納得。
後日知りましたが、現地で直接語学学校を探すと、いろいろキャンペーンとかもあって安く入れるらしいです。
まあしかし、それはよほど慣れているか度胸がないと。
あと、あまりに安いところは、授業や先生の質が非常に悪く、なんなら通っている学生のレベルも低くて(不法移民と思しき人も多数)、とても学べる環境ではないこともあるらしいです。
ちなみに同じ学校に同じ期間、有料のエージェントを通してきた日本人に話を聞いたら、みんな100万円近くとられていました。
まあビザの申請も丸投げで楽はできたみたいですけど。でも先に苦労をしていない分、あとでしわ寄せもきている感じはしました。
結果的に私は、ベストの選択ができていたと思います。
少なくとも渡航後はエージェント不要です
ちなみに私のお手伝いをしていただいたところは、渡航後のアフターサービス的なものはありませんでした。
対して有料エージェントのほとんどは、滞在後のサポートもうたっています。
しかし実際現地では、日本人向けの官民無料サービスがいっぱいありますし、日本人もたくさんいて助けてくれます。
自分でできることは日々増えていきますし、語学学校に通えば学校自体も生徒のためにいろいろしてくれますし、バイトをすればそこも基本的に大きな味方になってくれます。
滞在中エージェントはまっったく不要です。
ビザ申請は自分でできます
先の語学学校申込以前に、ビザの申請自体は完全に自力で行いました。
ビザは発給後、1年以内に現地入りすればOK。
とりあえず1年以内に行くことが確定すれば、早めにとっとくにこしたことないです。
ビザ申請に必要なのは、パスポート(幸い10年で取得済)、50万円の残高証明(働けるといっても、賃金が目的でないことを示すため)、申請費用(当時で4万円くらいだったような?)、そして申請書。
ちょうど自宅にインターネットを導入したころだったので、ネット申請ができたのも助かりました。当時の英語力では内容はほとんど理解できなかったものの、手引書(申請方法が写真付きで紹介されていたものを一冊購入)の通りに一つずつ入力していくと、時間はかかりましたがちゃんと申請できました。
後日ビザが発行・送付されてきて、自分でそれをパスポートに貼るときは「いよいよだな~」と心が躍ったものです。
ちなみに次のパスポート更新の際に、この時のパスポートは回収されてしまったので、現物は手元に残っていません。今思えば、写真ぐらい取っておけばよかったのになあ。
ちょっとのんびりして、さあ出発!
2003年4月末に退職。しばらく実家でダラダラし(それは許して~)6月下旬、ついに旅立ちの日が。
荷物が多すぎて超過料金5000円を支払い(生理用品からシャンプー・リンスの替えまで持ってしまった)、奄美空港から伊丹空港へ向かい、伊丹からはバスで関空へ。このバスがえらい事故渋滞に巻き込まれるハプニングに見舞われつつ、まあ出発1時間前には到着。
そして約6時間のフライトで向かう先は、時差は1時間ながら季節が真逆の南半球です。
そして不安2割・期待10割(算数のできない子だと思ってください)を胸に、機上の人へ。その先には、人生で最高の10か月が待っているのです。
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